No.003 夫婦事情と結婚願望

 私の姉には旦那がいる。高校生の頃にひとつ上の先輩だった人らしい。頭が良くて常に成績はトップであり、人当たりが良くて周囲からの信頼もあり、校内の誰もが彼に期待を抱いていた。そんな存在。今は弁護士をやっている。法律や政治などといった固い事は苦手な私でも、言葉の響きだけで何となくスゴイ職業なんだろうなぁという事はわかる。姉は言わば勝ち組というヤツで、しかしながら私は、そんな事を微塵も感じないのだった。
 旦那が単身赴任中なもので、姉とその息子(私から言うと甥っ子)は現在実家であるこの家で暮らしている。親子ほどに年の離れた兄姉と甥っ子の四人暮らしというわけだ。
 今年小学校に上がった甥は、新しく出来た友達と意気投合したようで、この夏休みはしょっちゅうお泊まりに行っている。八月にはサッカークラブの合宿で山梨県の方に行く予定なので、その予行練習だと思えば良いのかもしれない。

「うるさいのがいないと平和で良いわね」

 夕食後の一時。私は兄の入れたお茶をすすり、静かで穏やかな時間に浸りながらふぅっと息をついた。

「いやぁほんと、全くだわ」

 私の隣で、その『うるさいの』の母親が力強く頷いている。
 あなたは肯定しちゃ駄目でしょ……。

「何かやらかさないと良いけど、まぁあの子も演技派だから」

「そうねー。将来は詐欺師が有望かしら」

「そこは役者って言うところだろう…」

 自分の身内に対して心にもない事をぼやいていると、兄が湯呑みを持って私の正面に座った。その顔は呆れているけれど微笑みも混じっており、どうにも否定しきれないといった様子だ。

「お姉ちゃんも良くあの人と結婚しようと思ったわよねぇ」

「いやぁ、ほんと、そうよねぇ」

 いや、だから、肯定しちゃ駄目でしょって……。
 弁護士と言うとお堅いイメージがあり、当然本人もお堅い人なんだろうなぁと想像してしまうものである。しかし、姉の旦那は(時と場合によればそう見える時もあるけれど、私達を相手にする際には大凡)そんな人ではなく、言うなれば、むしろぶっちゃけて言ってしまうならば、職業とは真逆の性格をしているのだ。

「彼を理解する人物は沢山いたけど、でも…まぁ、相手してあげられるのは自分くらいかもしれないって、思ったからかしらね」

「喧嘩ばっかしてるのに?」

「…。そうよぉ」

「今一瞬躊躇ったよね!?」

 姉と旦那は、決して仲良しこよしな関係というわけではない。僅かな事でも言い合いになる。どうやら付き合う前からそうらしいのだ。
 結婚して甥が生まれてもそれは変わらず、小さな事でいがみ合いが生じる度に、姉は実家に帰らせて何とかと言ってうちに来る。甥は大方言い分が正しい方に付くので、一緒に彼が付いて来る事はあったりなかったりだ。
 そうやってお互い気が済むまでむくれて、反省して、旦那が姉を迎えに来る。テンプレートと言って良いほどに、彼女達の喧嘩は流れが決まっていて、言っちゃ悪いけど面白い。

「でも、まぁ、そうかもね。喧嘩するほど仲が良いとも言うし」

 お互い素直じゃないから、喧嘩のように思う存分ぶつかる機会がないと本心を打ち明けられないのかもしれない。素直じゃなくて、照れ屋で、不器用だから。

「お似合いの夫婦だよね」

 目の前の兄が優しく微笑む。どうやら私と同じ事を思ったようだ。

「やめてよ、小っ恥ずかしい。それに何だかあんまり嬉しくないわ」

「お兄ちゃんはさ、結婚願望ってないの?」

 急に話を振られて驚いたのか、細めていた目が丸くなる。困ったように笑って、首を傾げるその様子は上品で、とても、異性が放っておくような男だとは思えないのだけど、私達の大好きなこの兄は、生まれてこの方三十八年、交際した経験が一度もない。

「結婚かぁ。そりゃあもうこんな年だし、考えた事くらいはあるよ」

 少し考えてぽつりとそう呟くと、兄はテーブルに置いた湯呑みを両手で包み込む。ゆらめく煎茶の波をしばらく眺めたのち、顔を上げて照れたように微笑んだ。

「だけど今の僕にとっては、君達妹が何より大切だから、まだしばらくは手放したくないかな」

「………」

 兄は、ずるい。
 私達じゃ恥ずかしくって絶対に口に出来ないような言葉を、照れながらも口にする事が出来る。何故、同じ血を受け継いでいるはずなのに、こうも違うのだろう。

「……お姉ちゃんもこれくらい素直だったらねぇ」

 兄の言葉にまともな返事が出来ない気がして、姉の方に振った。

「大きなお世話よ……」

 姉もまた、同じ気持ちだったらしい。
 兄はそんな私達を交互に見て、お茶を一口飲むと、一息ついて口を開いた。

「それに、僕達からすれば、ヨシミちゃんは娘みたいなものだしね」

 …この兄は、天使か何かの生まれ変わりなんじゃなかろうか。彼の背中に羽が見えるような気がしてならない。何故こうも天使のような言葉を口に出来るのだろう。

「そうね。確かに、娘みたいなもんだわ」

 隣で姉が力強く頷いている。

「嬉しいような恥ずかしいような……」

 正直照れ臭い。
 何年も前から両親は海外にいて、帰って来るのも数日のため、兄姉と過ごしている時間の方が圧倒的に多い。そう考えると、年の差もあって、確かに親子のようだ。

 この二人は、私の自慢の兄姉なのである。

 姉は本当の母親のくせして、それらしい事をほとんど出来ていない。料理は人並みに出来るのに、包丁や火を扱う事に苦手意識があるのか、ちょっと目を離すと買って来た惣菜をそのまま食卓に出す。旦那との喧嘩の種になる事もあって、その時は私も旦那の味方に付くのだ。
 しかし、彼女は旦那にこそ素直になれないものの、裏表がなく、思った事はストレートに言うタイプの人間だ。世話好きで人見知りをしないので、老若男女問わず多くの知り合いがいる。

 兄については言うまでもないだろう。料理が上手で面倒見も良くて優しくて、女性にとっては一番理想的な男性像なんじゃないだろうか。彼曰く、女性にアタックされた事もないと言っていたけれど、ひょっとすると、周りの人々にとっては高嶺の花なのかもしれない。私自身、兄がまるで雲の上の人のように見える時がある。昨今彼のように綺麗な心の持ち主に出会う事なんてそうそうない。大袈裟かもしれないけど、絶滅危惧種と言っても良いくらいだ。是非とも国で保護して貰いたい。

「………」

 そらしていた目を戻し、兄をちらりと盗み見ると、彼はこちらを見てにこりと微笑んだ。
 天使…。
 あいつもこれくらい、上品で綺麗で素敵な笑顔の持ち主だったら。なぁ。

「………」

「…? ヨシミちゃんどうかした?」

「ううん、何でもない」

 上品で綺麗で素敵な笑顔の持ち主な神様を思い浮かべたら、ただ、ひたすら、胡散臭いだけだった。