No.005 夫婦喧嘩

 これは、姉が旦那の単身赴任のために、甥と共に実家で暮らすようになる以前の話である。

「……えーと、ただいま」

 日も暮れ、部活から帰ってきた私の目に飛び込んできたのは、リビングのソファーで頬杖をついているふくれっ面の姉と、台所で夕食を作っているエプロン姿の兄と、背伸びをしながらダイニングのテーブルを一生懸命拭いている甥の姿だった。
 何がどうなってこうなったのか、簡単に想像出来る。
 兄と甥はこちらを向いて『おかえり』と返してくれた。しかし姉は私の存在に気付いていないのか、付いていないテレビをひたすら睨み付け、時折カーテンの閉まった窓に目を移して大きなため息を付いていた。

「今回はどうしたのよ? たっくんがいるって事は、今回は旦那さんに否があるみたいだけど、何が原因?」

「そりゃーよー! おやじがよー!」

「たっくん。お父さん、でしょ?」

 誰に似たであろう甥の言葉遣いを兄が窘める。私や姉夫婦には逆らうくせに、何故か兄の言う事だけは素直に聞く甥は、素早く言い直した。

「おとーさんがよー! わるいんだぜ!」

「えっとね、ヨシミちゃん。さっき聞いた話だと…」

 兄の話によると、事の次第は今日の夕方、いつもより早く帰宅した旦那との会話が原因だったらしい。幼稚園に勤めている姉は、その日あった苦労話を旦那に話していたようなのだが、その返事の九割が『どんまい』だったので、姉が『適当な返事しないでよ!』と腹を立てたという事なのだ。
 それだけなら、ろくに話を聞いていないだろう旦那の方に否があるのは当然だ。口は悪くとも賢い甥が姉に付いてきたのも頷ける。

「何を言ってもね! どんまいで片付けるのはどうかと思うのよ! 他にあるでしょ!? 色々と!!」

 頬杖をしていた方の手でソファーを思い切り殴りつける姉。ボフンッというソファーの鈍い叫び声と同時に、インターホンが鳴った。

「ほら来たよ。お迎え」

「フンッ」

 確認するまでもなく、旦那である。兄はその場から動こうとしない姉に変わって、エプロン姿のまま玄関へと向かった。

「今回は早かったわね?」

 テーブルに並ぶ前菜をひょいとつまみ、味見と言う名の盗み食いをしながら甥に問いかける。甥は『ちゃんと手ぇ洗ったのかよ』と言いつつも、その小さな目と手は私と同じく前菜に向けられている。二口目に手を伸ばそうとしたとき、兄が旦那を連れて入ってきたので咄嗟に手を引っ込めた。

「とりあえず彼の話も聞いてあげないと」

 そう言って兄が旦那に話すよう促すと、スーツ姿の彼は掛けている眼鏡を外し、ネクタイを緩めた。普段、この人は家に帰るとすぐ身に付けている物を外すのだが、今その行為をすると言う事は、たぶん、今の今まで余裕がなかったのだろう。帰宅してすぐ姉の話を聞いて例の争いが起こったとしても、姉と甥が家を出てから時間はあるはずだ。
 だからたぶん、その間彼は、自分の中で言い訳でもしていたのだろう。たぶん。

「あのなぁ、何で家にいるときまで言葉を選んで喋らなきゃなんねぇんだよ」

「……だ、そうですけど。お姉ちゃん」

「だからってねぇ! どんまいだけ言われてもねぇ!! こっちは全然会話してる気にならないのよ! 私は機械に話し掛けてるんじゃないんだから!」

「…ですってよ」

 何となく予測していた事が当たったらしい。この、姉の旦那である弁護士は、普段堅い仕事をしているおかげで、遠回しに、オブラートに包んだ物の言い方をしなくてはならないのだ。特に彼の場合は一山ほど遠回りしなくてはならず、オブラートも四五十枚ほど包まなくてはならないので、余計に神経を使うんだろう。仕事帰りともなれば疲労も溜まっている。そんな中妻である姉の愚痴を聞かされたのでは、生返事をしてしまっても仕方がないのかもしれない。

「えーと…じゃあ、そうだな。そのどんまいにはどんな意味が込められてるんだい?」

 兄は困った様子で、睨み合う姉と旦那の間に割って入った。夕食を作る作業は完全に止まってしまっている。
 部活があったのに買い食いせず真っ直ぐ帰ってきたというのに……今日は兄が夕食の当番だからと足早に帰ってきたのに……こんなお預けはない。
 ちらりと甥の方を見ると、私と同じ事を考えているのか、テーブルについて前菜をじっと見つめていた。

「意味だぁ? そんなのはよ、今回は大変な思いをして辛かっただろうけど、次はきっと上手く行くから、落ち込まず前向きに考えなって。お前なら大丈夫だから。に決まってるだろうが!」

 うわあ……。

「うわあ……」

 私の心の声と甥の声が被る。
 結局ただの痴話喧嘩だったようだ。
 これ以上仲立ちする必要はないと判断したんだろう、兄はやれやれと言った様子でそそくさと夕食作りを再開した。

「んな事わかるわけないでしょ! どんまいの四文字にどんだけ凝縮されてんのよ!!」

 お姉ちゃんちがう…そこは『そんなに私の事を思っててくれたなんて……』って頬染めながら抱きついて綺麗に仲直りするところ……。

「それくらいわかれよ! どんだけ一緒にいると思ってんだ!!」

「あのー…もうちょっと声のボリューム下げてくれる? 時間帯考えて…」

 しかしこの(ある意味)仲良し夫婦には私の言葉など聞こえていないのだった。

「あんたも大変よねぇ。こんな夫婦の子供なんて」

「もーなれた。それよりこれもう食って良い!? はらへって死にそーなんだけど!」

 この親にしてこの子である。まぁ下手に気にするよりかは断然マシだけど。

「仕方ないなぁ。ちゃんとお箸で食べるんだよ。手で食べるのはお行儀悪いからね」

 そう言いながら兄はちらりと私の方を見る。
 バレてたか……。

「じゃあ私はこれからあなたが帰って来ても『おかえり』しか言わないわ! この四文字にはね、今日もお仕事お疲れさまでした。いつも私達のために汗水流してくれてありがとね。今晩は買って来たおかずしかないけど愛はこもってるのよ、今温めるわね。っていう意味が込められてるのよ!! 良いの!?」

「おかずくらい作れよ!」

「良いの!?」

「レシピ通りに作れるんならな!」

「無茶言わないで!!」

 あぁ…もう話がどんどん飛躍していく……。

「たっくん、お父さんの分のお皿を出してくれないかな?」

「しゃーねーなぁ、もー」

 私は兄の手伝いをするわけでもなく、姉夫婦の仲立ちをするわけでもなく、リビングのソファーに座ってそっと携帯を取り出し、我関せずの態勢を決め込んだ。
 普段この家がどれだけ賑やかなのかという事だけは、わかってもらえたと思う。